それでも生きよう
しにたくなる。
正確にいうと、無になりたい。
はじめから無かったことにしたい。
でもでも、
こんな私に気遣って声をかけてくれる人がいたり。
ちっとも支えになれてないのに重荷じゃないと言ってくれる夫がいたり。
私は恵まれている。
迷惑かけ続けるてることが苦しいけど
それでもやっぱり生きようと思う。
世界はマインドコントロールに満ちている
世界はマインドコントロールに満ちている
親の教育も
教師の教えも
私のためを思って言ってくれるアドバイスも
あの広告も
その宣伝も
ちょっとした会話でさえ
全て全てがマインドコントロール👀‼
マインドコントロールは悪なのか?
そういうことではないわな
複雑なこの社会を生き抜くために
必要な知恵は沢山ある。
面倒だから言われた通りにしとこ~とか
無自覚になり
自分の頭で考えなくなったら、
それはヤバい。
けど自分の頭だけで考えたら浅知恵で
失敗することが多い。
別に、上手に生きれたから正解ってわけではなかろうに、
なるたけ失敗せんと上手いこと要領よく世渡りしたいなぁとか考えている私がいる。
楽してね、、、、
でもそんな人生もつまらんくないか…。
どうしたら充実して生きれるのだろうかとなんかそれっぽい人の話も聞いていてみたりする。
たいがいそれは、コミット出来ない部分があったりタイプが違ったり置かれた環境が違ったりして100%参考にすることもできん。
結果つまみ食いするような形で受け入れてみても現実は動かん。
少しは参考になったけど。
最後に行き着いたところは
自分が過去から影響されてきた思考のクセ(受けたマインドコントロール)
を洗い出し、
感情のコントロールを学び
習慣と行動をかえていく。
セルフマインドコントロール能力を磨くこと。
ここに行き着いた。
賢い人は初めからわかってることなんやろけど。
遠回りが多いわ😞💨
生きてるだけで100点満点💮
朝目が覚めた。
ああ生きている。
命が鼓動するってすごいことなんだ。
生きるための全ての条件が整ってなければならない。
体外の環境しかり、体内の環境しかり。
その条件全て満たしてここにいるんだもの。
生かしてくれる何かに感謝。
躍動するこの命にありがとう。
とはいえ、、、
とはいえですよ。
苦しいんだ。
こんな自分が生きていていいのかと。
役に立たないどころか、周りに迷惑ばかり掛けて
結局、自分で決めたことすらまともに出来ない不甲斐ないこの私💧
『生きたくても生きれない人もいるのに』
何て言われた日には返す言葉もございません。
なんとか生き続けようとするのなら
この自分と仲直りしなくちゃなりません。
いつなんどきでも側にいて私の全てを見つめているこの存在。
今まで一緒にいて心地よく無いなら
今後一生心地よくなくなってしまう。
だから、なんとしても仲良くなる方法を探すのです。
心の中で私を否定し続けるこの声は何処から来たのか?
幼いころの家庭環境に問題があるのは確かだが、
私はもっとずっと根深い、‘’業‘’を感じる。
とにかくこんな状態で生を受けた。
生まれ落ちたばかりの私にはどうすることも出来なかった宿命。
恨んでも憤っても腐ってもどうにもならない。
ますます業が積もるだけ。
そこでね、いいとこ見つけようと思ったわけよ。
他者との比較ではなく単純にすごいこと。
それが、生きてるだけで100点満点💮につながった。
- 目が覚めたらすでに100点
- 顔を洗って窓を開けたらさらに+10点
- 日常生活がこなせたら各々+10点
- 自分でやろうと決めたことが出来たら+20点
- 加点のみ
・出来なかったらそういう時もあるさと自分を許す
・適当にやる
・周囲に迷惑掛けたと思ったら素直に謝る
・どうしても嫌なこと、出来ないことはやらない
・人に期待されることを望まず
・承認欲求を捨てる
ま、こんな調子でゆる~く。
等身大の自分以上に大きく見せようとするのは
自○行為だ。
激よわ豆腐メンタル。さて、どう生き延びる?
豆腐メンタルであることを受け入れられなくて足掻きが生じる。
受け入れてしまえば、
もう人並みにこうでなければ、、、とか関係なくなる。
何度取り組んでみても同じところで崩壊していく私の心。
繰り返す失敗。
人生は有限だ。
取り組み姿勢がわたし向きじゃあないと悟った。今さらか…
自分で自分を追い込むのは止めよう。
というか、もーーーーーーーー無理!!
さて、こんな私がこの現代社会をどう生き延びるか?
今までは人に甘えちゃいかんと思ってた。
人様に迷惑掛けず、自分で出来ることは自分できちんとやって
その代わり人様のお困りごとにも干渉せず首突っ込まず。
それが礼儀と思ってた。
もしかしたらそれちょっと違うかも?…と感じ始めた今日この頃。
リズ*ブルボー『五つの傷』より一部抜粋
五つの傷
《拒絶》による傷
《見捨て》による傷
《侮辱》による傷
《裏切り》による傷
《不正》による傷
経験を受け入れるということはその経験を好きになることでもなく、またその経験に同意するということでもない。
そうではなくて、むしろその経験を通して自分にとって必要なことを学ぶ、ということ。
そのためには《原因と結果の法則》に意識的にならねばならない。
つまり私たちが感じたこと、思ったこと、決めたこと、言ったこと、行ったことが一定の結果を引き起こすということを知らねばならない。
私(著者)が〈解決されていない問題〉というとき、それはあなたが自分を受け入れていない状態で経験したことをあらわす。
私は、〈経験〉を受け入れることと自分を受け入れることをはっきりと区別している。
具体例をあげると
今ここに、父親から拒絶された女の子がいるとする。この父親は本当は男の子が欲しかった。
この場合〈経験〉を受け入れるとは、自分の父親が、本当は男の子を望んでいたために自分を拒絶したのだ、という事実をありのままに受け入れることを意味している。
一方〈自分〉を受け入れるとは、そういう父親を恨んだことをありのままに認め、それを許すこと。父親も裁かず、自分も裁かず、それぞれが苦しんだことを理解して、思いやりの心を持つということ。
そしてこの女の子がやがて誰かを拒絶することになったときに、
自分を全く裁かず、自分を理解し自分に対して思いやりを持つことが出来たならこの子にとってその問題は解決されたことになる。
あるいは次のような場合にも。
つまり、この女の子がいつか誰かを拒絶したときに
その相手が、人間は誰でも人生のある時期に他者を拒絶することがあるものだと考え、この子に対して思いやりを持ち、この子を全く恨まなかったという場合。
もっともエゴはあらゆる策略を使って『この問題は解決済み』と私たちに思い込ませようとする。
自分が本当はその人を恨んでいるにも拘わらず、その事を自覚させまいとするエゴの策略があるのだ。
自分は相手を恨んでいるにも拘わらず、その相手を受け入れたと思い込ませようとする。
これは単に〈経験を受け入れた〉だけに過ぎない。
つらい経験を受け入れかつ自分を受け入れるのは極めて難しい。
というのも、私たちが受け入れることの出来ない経験は、
自分自身が他者に対して同じように振る舞っているという事実に気づかせるため存在する、
ということをエゴは受け入れようとしないから。
【自分がされていると思っていることは、実は相手に対し、自分もしているという事実】
子供と両親とは解決すべき同じ問題を抱えているということが一般的にいえる。
生まれるに際して、 私たちはそうしたことをいったん全て忘れる。
そしてそんな状態のまま、この地上において自分の欠点や弱さ、長所や強さ、欲求、人格などを全て受け入れる必要がある。
それが人類全体にとっての課題なのである。
子供はまず、自分自身である喜びを味わう。これが第一段階である。
第二段階で、自分自身ではいられないという苦痛を味わうことになる。次に来るのが、怒りと反抗の第三段階。
そして第四段階としてあきらめを経験し、その結果他者の思い通りの人格を築いて自分自身ではなくなってゆく。
ある人々は一生のあいだずっと第三段階にとどまり続けるかもしれない。一生ずっと状況に反応し続け、怒り続けるのだ。
この第三段階、第四段階において私たちは新しい人格ーつまり仮面ーをつくる。
そして第二段階において感じたつらさから自分を守ろうとする。
それらの仮面は五つの大きな傷にともなって少なくとも五つ作られる。
時期の早いものから順番に分類すると次のようになる
傷 仮面
《拒絶》による傷 ➡〈逃避する人の仮面〉
《見捨て》による傷 ➡〈依存する人の仮面〉
《侮辱》による傷 ➡〈マゾヒストの仮面〉
《裏切り》による傷 ➡〈操作する人の仮面〉
《不正》による傷 ➡〈頑固な人の仮面〉
自分を愛せるようになるために
大切に想っていた人を諦める。
好きだったグループを離れる。
0から出発
何故って
背伸びしないと一緒に居られないから。
彼らが私を受け入れてくれない訳じゃない。
だけどまざまざと見せ付けられる明らかな才能の差
自分が惨めになるのです(。_。)
無理をして、そこに居たんだねと思う。
とても知的で民度も高く、文化や芸能にも精通している方々だった。
親切にしてくれてありがとう。
とても沢山の刺激を受け、色んな事を学ばせてもらった。
でも自分に自信が持てるようにならなければ
そんな人たちと一緒に居ることは苦痛になってしまうんだとわかった。
これからは自分を愛せるようになるために。
この場をお借りして
考えを整理していこう。
ブログってありがたい。
客観的に見れるから。
ノートなんかに書くと、字が汚くてぐっちゃぐちゃになってしまうもの(*_*)
【個】という感覚
自分とは何か?
などという根源的な問いは
私ごとき
いくら考えても答えが出るはずもないのだが。
境界線の曖昧な私は
それが
自分の考えや感情なのか
それとも他者からのものなのかわからなくて
混乱したり
しょっちゅう気分が上がったり下がったり
周囲の環境の影響をモロに受けるタイプである。
日本人にはお馴染みの
[空気]ともいうあれ。
あれは、私ではないがあなたでもない。
その場全体が融合した何か、、、
心理学用語で集合無意識と呼ばれるものか。
その曖昧模糊としたあなたと私の狭間に、
揺らめくようにして立ち上がるのが自分なのかもしれない。
向き合う相手によって無意識のうちに
私の態度や振る舞いは変化する。
あならだってそうだ。
2人のときと3人以上に人数が増えていったとき、
私達のキャラは微妙に変化する。
この掴み所のないものの正体。
では[個]とは何だろう?
上記のとおり
私は長く
この自他の境界線問題が解決出来ずにきた。
簡単に他者の侵入を許し
強引に他者の領土を侵し
しかもそれが
普通の人間関係の在り方と
信じて疑わなかった。
それ以外に
より良い在り方があると知ったあとも
ではどうしたらいいのか皆目見当もつかず。
私は人当たりのいい人物を演じ続ける外なかった。
精神に異常をきたし
その状態でこれ以上生きることは出来なくなった時
私はその役を降りることにした。
否、降りざるを得なかった。
少しづつ
自分の気持ちを感じることが出来るようになり
自分で考え
自分のやってみたいことを書き出し
ハードルの低い所から挑戦し
行動してみてその結果を引き受けること。
上手くいってもいかなくても
先ずは行動した自分を褒め称え
失敗したなら
どうしたら良かったのか再度考え直してみる。
とてもとても
小さな一歩だけれど
そんなことを繰り返すうちに
[個]という感覚が掴めてきた。