リズ*ブルボー『五つの傷』より一部抜粋
五つの傷
《拒絶》による傷
《見捨て》による傷
《侮辱》による傷
《裏切り》による傷
《不正》による傷
経験を受け入れるということはその経験を好きになることでもなく、またその経験に同意するということでもない。
そうではなくて、むしろその経験を通して自分にとって必要なことを学ぶ、ということ。
そのためには《原因と結果の法則》に意識的にならねばならない。
つまり私たちが感じたこと、思ったこと、決めたこと、言ったこと、行ったことが一定の結果を引き起こすということを知らねばならない。
私(著者)が〈解決されていない問題〉というとき、それはあなたが自分を受け入れていない状態で経験したことをあらわす。
私は、〈経験〉を受け入れることと自分を受け入れることをはっきりと区別している。
具体例をあげると
今ここに、父親から拒絶された女の子がいるとする。この父親は本当は男の子が欲しかった。
この場合〈経験〉を受け入れるとは、自分の父親が、本当は男の子を望んでいたために自分を拒絶したのだ、という事実をありのままに受け入れることを意味している。
一方〈自分〉を受け入れるとは、そういう父親を恨んだことをありのままに認め、それを許すこと。父親も裁かず、自分も裁かず、それぞれが苦しんだことを理解して、思いやりの心を持つということ。
そしてこの女の子がやがて誰かを拒絶することになったときに、
自分を全く裁かず、自分を理解し自分に対して思いやりを持つことが出来たならこの子にとってその問題は解決されたことになる。
あるいは次のような場合にも。
つまり、この女の子がいつか誰かを拒絶したときに
その相手が、人間は誰でも人生のある時期に他者を拒絶することがあるものだと考え、この子に対して思いやりを持ち、この子を全く恨まなかったという場合。
もっともエゴはあらゆる策略を使って『この問題は解決済み』と私たちに思い込ませようとする。
自分が本当はその人を恨んでいるにも拘わらず、その事を自覚させまいとするエゴの策略があるのだ。
自分は相手を恨んでいるにも拘わらず、その相手を受け入れたと思い込ませようとする。
これは単に〈経験を受け入れた〉だけに過ぎない。
つらい経験を受け入れかつ自分を受け入れるのは極めて難しい。
というのも、私たちが受け入れることの出来ない経験は、
自分自身が他者に対して同じように振る舞っているという事実に気づかせるため存在する、
ということをエゴは受け入れようとしないから。
【自分がされていると思っていることは、実は相手に対し、自分もしているという事実】
子供と両親とは解決すべき同じ問題を抱えているということが一般的にいえる。
生まれるに際して、 私たちはそうしたことをいったん全て忘れる。
そしてそんな状態のまま、この地上において自分の欠点や弱さ、長所や強さ、欲求、人格などを全て受け入れる必要がある。
それが人類全体にとっての課題なのである。
子供はまず、自分自身である喜びを味わう。これが第一段階である。
第二段階で、自分自身ではいられないという苦痛を味わうことになる。次に来るのが、怒りと反抗の第三段階。
そして第四段階としてあきらめを経験し、その結果他者の思い通りの人格を築いて自分自身ではなくなってゆく。
ある人々は一生のあいだずっと第三段階にとどまり続けるかもしれない。一生ずっと状況に反応し続け、怒り続けるのだ。
この第三段階、第四段階において私たちは新しい人格ーつまり仮面ーをつくる。
そして第二段階において感じたつらさから自分を守ろうとする。
それらの仮面は五つの大きな傷にともなって少なくとも五つ作られる。
時期の早いものから順番に分類すると次のようになる
傷 仮面
《拒絶》による傷 ➡〈逃避する人の仮面〉
《見捨て》による傷 ➡〈依存する人の仮面〉
《侮辱》による傷 ➡〈マゾヒストの仮面〉
《裏切り》による傷 ➡〈操作する人の仮面〉
《不正》による傷 ➡〈頑固な人の仮面〉